シリーズ
Peace Message ピースメッセージ

地婦連の会員から、平和を祈りつつ、全国からメッセージをとどけられています。
ここに、そのピースメッセージをご紹介します。
※注−肩書きは、寄稿当時のものです。
☆全国大会「国際社会と平和」分科会の資料はこちら(PDF


●「知っていますか?『国民保護法』 〜今、知らないうちに戦争が前提の法律が動いて」
    野々村直子(長崎市婦連)
●「私の8月 〜語り伝えたいこと
   福地 幸子 (長崎県地域婦人団体連絡協議会・会長)
●「共生の理念で平和な社会を構築してゆきましょう」
   中畔 都舍子(全地婦連会長)
●「思い出すたびに怒りが・・・」〜戦争とは人命を無視した殺し合い
   板東美津子(徳島県婦人団体連合会)
●「一日も早い平和を」
   澤井清子(広島県地域女性団体連絡協議会・会長)
●「平和と教育」〜お国のための命から、個人の尊厳をたからかに謳う教育へ
   上田喜志子(長崎県地域婦人団体連絡協議会)
●「島子姉さんと終戦の日」〜フィリピン・ミンダナオ島での逃避行、悲劇の日々
   山城康子(沖縄県婦人連合会理事)
●「“平和のつどい”をきっかけに」
   間島快子(川崎市女性連絡協議会・会長)
●「平和のすばらしさ」 〜平和は神様が与えるものではなく人々がつくるもの
   阿部恒子(宮城県地域婦人団体連絡協議会・会長)
●「平和への決意 新たに」
   石井節子(埼玉県地域婦人会連合会顧問)
●「戦争を語り継ぐことが大切」〜幾多の尊い犠牲を思う
   中川美知子(大阪府地域婦人団体協議会)
●「本当の平和を願って」
   佐藤 伸子(福島県婦連・川俣町鶴沢婦人会長)
●「闇を歩く」〜 地婦連500万会員が烏合の衆になってはならない
   安田 栄子(奈良県桜井市地婦連会長)
●「平和に感謝して」
   熊谷 京子(福岡県鞍手郡会長)
●「年追うごとに意味をもってきた「戦争体験記」集」〜多くの若者に読んでもらえる機会を得て
   田中ヨシコ(佐賀県地婦連副会長)
●「戦争はいやだ!!12歳の夏」 〜戦争に正義はない、広島で失った二人の友
   大林 恭子(香川県南町羽床婦人会長)
●「花火と空襲」
   中村陽子(三重県伊勢市婦人会)
●「金州に生きた日」〜対等な信頼関係に基づく日常の交流活動がいかに大切か
   緑川 たい (長野県連合婦人会)
●「私の人生を変えた終戦」〜暴力の連鎖からは何も生まれない!
   中嶋 喜代(秋田県地域婦人団体連絡協議会・会長)
●「戦争はだめ 美化は尚だめ 風化だめ」〜戦時下体制の教育と青春、そして韓国を訪ねて
   宦@浩子(鳥取県連合婦人会・会員)
●「悲しい歴史は繰り返すまい」 〜戦争を体験したものとして、平和を守ることは義務
   及川 コマ(北海道女性団体連絡協議会・幹事)
●「子どもを再び戦場に送ってはならない 〜いまこそ日本国憲法の精神を大切に」
   三浦 雅子(山梨県連合婦人会)
●「忘れられない車中でのおにぎり 〜引揚者としてわが子の遺骨を抱いて」
   中嶋 喜代(秋田県地域婦人団体連絡協議会・会長)
●「一人ひとりの命を大切にするために」
   水野三重子(全地婦連・副会長、岡山県婦人協議会・会長)
●「全地婦連の活動はすべて平和あってこそ」 〜世界が評価する憲法の下で
   川島 霞子(全地婦連・副会長、東京都地域婦人連盟・会長)
●「戦争を知らない子どもたちへ 今、伝えなければ」
   加藤 ミサ子(新潟県婦人連盟・会員)
●「あの時を忘れることなく」 〜死を覚悟しての学徒動員のつらい日々
   高瀬 和子(石川県婦人団体協議会・副会長)
●「戦争を知らない若い人たちへ」
   芝田 滋子(千葉県連合婦人会・理事) 
●「平和を語り継ごう」 〜機銃掃射に撃たれて死んだ学友を思って
   関根 静子(茨城県女性団体連絡会・副会長)
●「平和を願う思い」〜毎日空襲から逃げまどって
   下田 久江(群馬県地域婦人団体連合会副会長)





●知っていますか?『国民保護法』 〜今、知らないうちに戦争が前提の法律が動いて
    野々村直子(長崎市婦連)
   
 2006年7月5日、長崎市国民保護協議会が開催されました。長崎地婦連の代表ということで出席しましたが、44人の委員のうち、女性は3人だけ。あとは自衛隊、警察、消防関係、行政、またライフラインに係わる団体(ガス、電気)交通関係の方々で構成されていました。
 女性の委員は、看護協会、婦人会、婦人防火クラブです。
 国民保護法というのは、2005年(平成16年)6月に成立した有事関連法の一つです。「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」です。つまりどこかの国から武力攻撃を受けたとき国民をどう守るか、について定めた法律です。
 私たちが知らないうちに戦争を前提とした法律ができ、それに向かった行政も動き始めているのです。
 それの会議の日は奇しくも『北朝鮮がミサイルの発射実験』を行い、国内が、また世界が騒然としていたあの日でした。
 会議の中で私は、こうしたことが実際に起こると、『だから防衛力が必要であるとか、軍備や自衛隊の強化』などという議論になりそうで恐ろしい気がする。私たち婦人会は戦争に反対し、平和な世界の実現に向けて考え行動している団体であるので、万一の場合の備えは必要だとは思うが、それと同時に、いやむしろ積極的に、平和について考えアピールしていくことに力を入れてほしい」と発言しました。
 「武力攻撃などあってはならない、しかし国民保護は無くてはならない」という、理解できるようなできないような不思議な話だな、と思ったのが出席しての感想でした。
 自衛隊がイラクから撤退して帰国しました。しかし戦争が終わったわけではありません。イスラエルとヨルダンの間の戦争も激化しています。
 このようなとき、犠牲になるのは女性や子どもたちです。どうして人は争うのでしょうか。一になったら世界中の人の顔が笑顔で輝くのでしょうか。子どもたちに平和な世界を残してあげたい、それはそんなに難しいことなのでしょうか。武器を捨てればいいだけのことなのに・・・、などと考えてしまいました。
 婦人会の活動を通しても子どもたちに、平和の大切さを折りに触れ語っていきたいと改めて思います。
(「長崎地婦連だより」平成18年8月15日号より)

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■2006年8月号

●私の8月 〜語り伝えたいこと

  福地 幸子 (長崎県地域婦人団体連絡協議会・会長)

*原爆投下の瞬間
 被爆61年を迎え、終生忘れることのできない恐怖と悲惨さを思いおこさせます。
 8月9日当時、私は爆心地から2・7キロの下西山に住み、報国隊で三菱の幸町工場へ勤務していましたが、頭痛がし、いつもなら少々無理をしても工場へ行くのですが、虫の知らせというのでしょうか、その日は休みました。
 11時頃おかゆを炊こうと塀の中で七輪をおこしていたら、なんとなく言いようのしれない不気味さに金比羅山の方を見上げると、黄色でどす黒く立ち込め、ムウーッと熱い異様な匂いに胸を圧迫されるような、一瞬どうして家に這入ったのか、爆風に飛ばされ目と耳をおさえて伏せました。
 しばらくして見ると、根太は折れ、畳が吹き上がり、水屋が倒れ、足の踏み場もありません。ガラスの破片がささり、痛みも分らず仰天し、裏の防空壕へ行き傷の手当をしながら、心細く涙も出ず、一人で死ぬのだろうか、戦争が終わらないかなあと思ったことは、今でも忘れられません。
*地獄の光景
 姉たちが帰り、浦上の方は全滅らしいと聞き、父を亡くしていた私たちは、親代わりの兄が帰って来ないので不安と心配で勝山小学校の近くまで迎えに行きました。途中では、血まみれでボロボロの服、火傷で水ぶくれになり、目はふさがり形相の変わった男か女か分らないたくさんの人たち。生き地獄です。一人ひとり、兄ではないかと見つめているうちに気が遠くなり、やっと家にたどり着きました。
 そこへ、会社の方が血まみれになった兄を抱えて、「頭部の傷が深いので安静にしてください」と言われ、私たちは兄の顔を見、涙が出て、生きていてよかったと安心しました。しかし、兄を送ってくださった方は傷一つなかったのに、3日後に亡くなられました。
 兄も頭や額の傷が化膿し、ハエがたかりウジ虫がわきました。ヨードチンキをつけてガーゼを被せるだけで何の手当てもできず、薬もなく、本当にどうなるのか考えもできず、哀れでした。下痢も続き、いろいろと症状がでました。
 ゴミを運ぶ大八車には死体がいっぱいに詰め込まれ、そのすき間から手や足がぶらぶら出て、何回も県立高女の運動場へ運んで焼かれました。風向きによっては暑さと悪臭がたまらなく、具合が悪くなりました。戦争の悲惨さ、残酷さ、虚しさは計りしれません。
*生き残ってなお苦しむ人々
 昭和45年に原爆検診の受付にお手伝いに行きました。荒々しく「手帳をお返しします!」という言葉に、「どうされましたか?」と私が聞くと、「娘の結婚の日取りまで決まっていたのに、原爆を受けていたら、奇形児が生まれると破談になりました」とのこと。お母さんも涙をいっぱいためて「情けなくて娘は泣いていました」とおっしゃいました。悲しい差別です。本当につらい思いをされたことでしょう。
 61年過ぎても、残留放射線の影響でしょうか、70歳以上の私の知り合いで、最近3人の方が胃癌になりました。生涯癒えぬ悲しみと不安が、心の傷となっています。
*戦争のない平和な世界を!
 あの一瞬にして15万人の死傷者を出す破壊力の核兵器は、人類の滅亡を招きます。地球温暖化に拍車をかけて、臨界前核実験は地下に向けて、また海中でも行われていますが、地球は丸いのです。
 世界中で天変地異が起こっています。地震があり大洪水や津波と、考えられない被害が続出しています。地球の破壊がさらに前進していると思います。
 核兵器廃絶を世界中の人々とともに実現しなければ、平和はありえません。核兵器廃絶を世界の国が真剣に理解し、未来のために、戦争のない平和な世界を幸せに生きることを祈念いたします。




■2005年1月(341号)

 新年のごあいさつ〜共生の理念で平和な社会を構築してゆきましょう

  中畔 都舍子(全地婦連会長)

 「戦争は人の心の中に生ずるものであるから、
人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない」
(ユネスコ憲章)

 正月の「正」には「改める・改まる」の意味があります。会員の皆さまも今年こそは・・・・と、新たな気持で新年を迎えられたことと思います。
 今年は戦後60年になりますが、「戦争は人の心の中に生ずるものであるから、人の心の中に平和の砦(とりで)を築かなければならない」というユネスコ憲章が採択されたのは、1945年です。
 人の心を育てる教育に期待し、今年こそは世界中が平和でありますよう、その推進に努めたいと思います。
 今、社会のあらゆる分野で変化、変容が進んでいますが、地域には、経済、教育、政治に関すること、あるいは男女共同参画など、課題が山積しています。私たちはそれぞれの領域でコミュニケーションを深め、互いに助け合い、共に生きることをめざす“共生の理念”こそ、今世紀のコンセプトであろうと思います。
最後に、昨年の自然災害で被害を受け、いまだ不便な暮らしをしておられる方々に、心からお見舞いと激励を申し上げます。




■2003年4月(320号)

●「思い出すたびに怒りが・・・」

 板東美津子(徳島県婦人団体連合会)

 戦争も熾烈を極め、本土への空襲も激烈の度を加えていた、昭和20年6月7日午前11時27分ごろのこと。米軍機B29より500kg爆弾11個が、200メートルの間に千鳥状に投下され、比較的安穏であったこの田舎、海南町でも多くの犠牲者が出た。
 全く思いがけない空襲であり、家屋全壊1戸、半壊15戸、即死6人、その他重軽傷数名。その爆発音は、遠く35キロメートル先の日和佐町まで聞こえ、土煙まで見えたそうである。
 それから半時間ぐらいたっただろうか。恐る恐る外に出てみると、なんだか騒々しい。母と二人で行ってみると、田んぼの中に直径15メートル、深さ5メートルぐらいのすり鉢状の大きな穴が見えた。そしてこの時、初めて爆弾が投下されたことを知ったのである。
 やがて、隣のおじいさんと孫が土に埋まってしまったこと、おばあさんは、田んぼから50メートルほど離れた桑畑に飛ばされていたとか、その裏隣のおばあさんと孫3人は、家の近くの田んぼに爆弾が落ち、爆風で飛ばされ4人とも即死とのこと。恐ろしさに足の震えがとまらなかった。
 そのとき孫のKさんは、15メートルほど離れた溝の中から抱きかかえられて来た。顔は真っ青。手足はだらんとして、小学校3年生の小さな命は、一瞬の間に失われたのだ。おばあさんはもっとひどく、内臓が飛び出して見るに耐えられない。犠牲者はそれだけではなかった。たまたま道を歩いていた近くのおばさんは、爆弾の破片があごに当たり、2、3本の歯を残してあごは切り取られていた。あまりのむごさに、その夜は眠ることができなかった。
 翌日になっても、隣のおじいさんと孫は見つからず、3日目にようやく掘り出すことができた。もちろん遺体になってである。あごを切り取られたおばさんも、飛ばされたおばあさんも病院で亡くなった。
 わたしたちの部落では、一度に8人の葬式を出した。内臓破裂のおばあさんは車に乗せられた寝棺からまだ、地が落ちていた。
 このときの悲惨さは、何十年経ようとも、私の脳裏から離れることがなく、思い出すたびに、恐ろしさと怒りがこみ上げてくる。
 戦争とは、人命を無視した殺し合いであり、絶対許されるべきものではない。人類滅亡という危機をはらんでいるということを忘れてはならない。
 イラク戦争が始まり、空襲警報のサイレンの音を聞いたとき、思わず耳をふさいだ。どんな理由があろうとも、戦争だけは避けてほしいと願った矢先である。
 また、子どもの逃げ惑う姿、大きな空虚な目を見張って恐怖におののく子どもたちの姿を思い、胸が痛む。早く犠牲の少ないうちに終結してほしいと切に願う。


●「一日も早い平和を」
 
 澤井清子(広島県地域女性団体連絡協議会・会長)
 
 21世紀こそ世界の平和を願って迎えたはずではなかったのか。イラクでの激戦は深まるばかりである。
 原爆投下の広島県人の私は、戦争の悲惨さを、まだ心の深い所で傷は残っている。
 原爆投下の翌日より、周辺の上級生の女学生は先生と支援部隊として交替で広島市内へ出動し、現場の状況が刻々と報告される。少しすると私たち同級生の出番も予定されていた。15歳の私ですら、現状が目の当たりにあるごとく悲惨な実情は、身体の震えを覚えている。戦争の悲惨さは想像を絶するものであった。
 この度のイラク戦争は、民主政権の確立を目的とした戦争?フセイン政権の崩壊を目指し国民を解放?戦争の犠牲者はだれなのか、最終的には都市部が戦場となり家族の営みすら壊れてしまう。もっと一人ひとりの国民が幸せな生活が営まれる方法はないものであろうか。
(後略)


■2003年5月(321号)

●「平和と教育」 〜お国のための命から、個人の尊厳をたからかに謳う教育へ

 上田喜志子(長崎県地域婦人団体連絡協議会)

 私たちの世代は、戦前・戦中・戦後を生き、その時代の価値観を内発的ではなく、外から押し付けられて生きてきた。毎日の学校生活は、先ず「教育勅語」を暗誦することから始まった。校門に入ったり出たりするときは、深々と最敬礼をしなければならなかった。
 当時の最高の美徳は、「お国のため、天皇陛下のために死ぬ」ことであった。個人の命は「九牛の一毛よりも軽し」と教え込まれた。大多数の人間は当然のこととしてそれを受け止めた。
 これはまさに教育の力である。教育は使いようによっては凶暴な力を振るう。
 敗戦後、民主的な憲法が設置され、教育勅語に代わって教育基本法が制定された。平和こそが人類永遠の悲願であることが明記され、個人の尊厳が高らかに謳われている。
 九牛の一毛よりも軽かった命は、地球よりも重いものとなった。
 私たちはこの理想、この理念を大切にし、子々孫々へ継承していかねばならない。


●「島子姉さんと終戦の日」〜フィリピン・ミンダナオ島での逃避行、悲劇の日々

 山城康子(沖縄県婦人連合会理事)
 
 太平洋戦争の一番激しかった昭和19〜20年、私たち家族9人は、フィリピン・ミンダナオ島に住んでいました。
 私は3歳年上の姉を父母が呼ぶように呼び捨てで「島子」といっては、母から「島子姉さん」といいなさいと言われていました。
 私が9歳の、あのとき以来「島子」と呼ぶことさえできなくなってしまいました。
 戦争がかなり激しくなり、敵が島に上陸したとき、日本人はもてるだけの食糧をもってタモーガンという密林に入りました。日本軍が作った一本の長い道を、何万人という日本人が奥へ奥へと数珠繋ぎになって歩いて行きました。ここでは毎日、雨が降るので道がぬかるんで泥沼のようになり、歩くのが大変なうえに、爆弾や砲弾も毎日飛んできました。
 そのうちに道のあちこちに弾にあたった人、食べ物がなくなり栄養失調で死んだ人たちが転がるようになりました。そのうち死んだ人を踏んで通らなければならなくなりました。死体は一週間以上もたっているらしく、臭いにおいが鼻をつきました。どの死体からも黒い汁が出て、虫が一杯で口や鼻に群がっていました。
 私と弟は泣いて立ち止まってしまいました。先に逝った姉と兄が戻ってきて、手を引いて死体の山を渡してくれましたが、私は一人で歩かなければなりませんでした。私は泣きながら目をつぶり勢いよく走ったつもりでしたが、足が死体と死体の間にめり込み、ぶっくり、ぼっこり、抜き足差し足がやっとでした。そんなとき、島子が手を貸してくれ、やっと死体の山を通り抜けることができました。
 こんなときにも、砲弾や爆弾や機銃の音は鳴り通しでした。爆弾が落ちるときには、誰かが「ふせっ!」と大声で叫びます。みんな道端に素早くうっぷせになり、手の指で耳と目と鼻を押さえます。爆風で耳の鼓膜が破れたり、目が飛び出したり、鼻が利かなくなったりしないためです。
 爆風がおさまると母はすぐ、「姉ちゃん、兄ちゃん、島子、康子、・・・」とみんなの名を呼び、無事かどうかを確かめます。そしてみんなの元気な顔を見てほっとするようでした。でもあたりには頭が吹っ飛んで体だけが倒れている人、死んだ母親の背中で火のついたように泣いている赤ちゃん。あたり一面はけが人や死人でいっぱいになり、手当てすれば助かる傷でも化膿したり、破傷風になったりして心で行く人が数限りなくありました。
 この密林に入ってから3ヶ月位はこわいこと、つらいこと、いやなことばかりでまるで地獄に落ちこんできたようでした。
 やがて食糧がなくなってきたので村の近くに隠れて暮らすことになりました。村から離れた一軒の農家に6家族が一緒に暮らし、大人達は毎日、村に食糧をとりに出かけました。
 ある朝、姉の代わりに島子が行くことになりました。その日も隠れ家から13人が食糧を取りに出かけました。
 留守番の私たちが見送ると、初めて参加する島子は遠足に行くみたいに楽しそうに、スキップして手を振り、出かけていきました。
 1時間半ほど歩いた一軒の農家で休憩中、バババババッっとカービン銃の激しい音に、みんなは「こっちよーっ」と叫びながら、裏山に走りこみました。母が振り返ったら、島子は足を引きずりながらついてくるのが見えました。
 しかし、母は引き返すこともできず、そのまま走り続け、二時間くらいして戻ったところ、島子は母が振り返った所からいくらも離れていないところで倒れていました。
 母は、気が狂ったみたいに島子にしがみついて泣きましたが、「残っている子どもたちのために元気を出さなければいけない。戦争中のことだ、もっとひどい目にあっている人もいるんだよ」とみんなに慰められました。
 ところが島子が死んだ日から幾日もたたない昭和20年8月27日、私たちは戦争が終わったことを知りました。なんと、島子が死んだ6日前に、戦争は終わっていたのです。それを知った私たちはこぶしを握り締めて悔しがりました。今までこらえていた悲しみが爆発し、島子が死んだ日よりももっと強く、島子が痛ましく思われました。私たちは抱き合っていつまでもいつまでも、声の限りに泣き続けました。
 戦争はとっても、とっても恐ろしくて、心が痛くて、悲しいです。そしてその悲しみはいつまでも消えることはありません。人間の存在を否定した最悪な行為が戦争だと思います。
 戦争体験者が高齢になり、次第に減っていく現在、子どもを持つ親が、若い人が平和についてしっかり学習して、子どもたちへ戦争を語って聞かせて、戦争の悲惨さと生命の尊さを伝えていかなければならない、と思うこの頃です。


■2003年6月(322号)

●「“平和のつどい”をきっかけに」

 間島快子(川崎市女性連絡協議会・会長)
 
 1999年にノーベル平和賞を授与された“国境なき医師団”は、営利を目的としない国際的な民間援助団体です。
 1971年に設立され、世界各地で年間約3000人がボランティアとして援助活動を行っていることが認められたものです。
 川崎市女性連絡協議会とのかかわりは、日本スタッフの入井智子さんに現状をご報告していただいた2000年の「平和のつどい」からです。それ以降、毎年このつどいで、多くの市民に現状を知ってもらうきっかけづくりをしています。
 入江さんは、ご自分がかかわることとなった経緯とともに、現地の様子をパネル展示やスライドを使いながらつぶさに語り、腕の太さを測るメジャーを見せてくれました。衝撃だったのは、手首の太さだと思った赤いしるしが、腕の付け根の一番太い所だったことです。
 最近のイラク攻撃による悲惨な子どもたちの有りようが、新聞・テレビ等で放映されるごとに胸が痛くなりました。そのような状況の中で、病院もなく薬もない所で、医師、看護師、そしてスタッフの方は仮宿舎を作って診察しています。
 戦争に巻き込まれて最初に傷つくのは子どもと女性、そしてお年寄りです。飢餓、貧困、虐待など、厳しい現実を強いられている各国の子どもたちへの医療活動を続けている様子を知り、平和のつどいの会場でも募金が集まりました。私たちが実際に行動できない、その活動を基金で支援をしているのです。
 一日も早く平和な世界、安心して暮らせるまちづくり、環境、消費者問題など、わたしたちのできることを頑張りたいと、心がけております。


●「平和のすばらしさ」 〜平和は神様が与えるものではなく人々がつくるもの

  阿部恒子(宮城県地域婦人団体連絡協議会・会長)

 わが宮城は終戦間近、連日の空襲警報や湾での艦砲射撃におびえる日々が続き、終戦直前7月10日は、仙台市を中心に猛烈な大空襲を受けました。
 大学病院から仙台駅前まで、中心部の広大な地域が何一つ残らない焼け野原の焦土と化し、見る影も無い無残で生活意欲も失う悲惨な状況でした。
 こつこつと真面目に積み重ねてきた人々の平穏な生活も一瞬にして打ちひしがれ、自然現象の猛威ではいくらかが残るものでありましょうが、すさまじい焼夷弾攻撃に何もかも失くし、生きる目標も失い、再起する意欲も起きず、誤った戦争の恐ろしさを身にしみた58年前の忘れられない戦禍は、人々にとって苦悩の日々でした。
 私個人も大阪市で教員をしており、これも大空襲で自宅は丸焼け、やっとの思いで主人の生家に昭和20年3月末、いわゆる疎開してまいりました。あの日々の大空襲も忘れられず、そちらこちらの火災で逃げ道を失った方が熱さのあまり、川に飛び込み溺死されたり、人間焼け焦げてしまうと重し石のように真っ黒なかたまりになってしまった姿を目の当たりにし、情報の誤りに気付かず、右往左往した人間の心の弱かったことをいまさらにうけとめ、それぞれの恐ろしい事実は私の人生で筆舌につくし難い体験として強く心から離れません。
 宮城県地域婦人団体連絡協議会では、仙台空襲の7月10日を中心に、毎年「世界の平和を願う宮婦連のつどい」を開催し、本年で15回を迎えます。県内地区をまわり番で開催し、戦争体験者の切実なお話し、北方領土の現状、元島民のお話し、各地域でのパレードによるアピール等により、戦争のおろかしさ、恐ろしさを回顧し、平和のすばらしさを若者や青少年に受け継ぐべく体制を強め、正しい情報の理解や人々の真の幸せは平和である心情を、会を重ねて深めて広げています。
 最後に私の心に残る言葉として、「平和は神様が与えるものではなく、人々が作り上げるものです」をお贈りいたします。


●「平和への決意 新たに」

  石井節子(埼玉県地域婦人会連合会顧問)

 埼玉県婦連が20年前に発刊した「あの空を忘れない」の戦争体験記に私も寄稿しており、本箱から取り出して、あらためて目を通しました。
 「夫の出生月と次男の産み月が重なり、大きなおなかと残された3人の子どもたち、病身の義父と50人の寺の修練生などを抱えて八面六尾の大活躍」と記してありました。
 長かった戦争も終わり、あの時(昭和18年11月)に誕生した次男が、もう還暦を迎える年齢になっていることを思うと、いまさらながら「平和」の尊さをしみじみ感じる今日このごろです。
 「イラク戦争」もようやく市民や子どもたちの悲惨な犠牲の中で終わりを告げましたが、これから治安回復をはじめ、さまざまな後始末が大変であると推察しております。
 今回の戦争で、核が使われなかったことは、全地婦連の初代山高しげり会長、2代目の大友よう会長の「核兵器完全禁止」に生涯をかけられた思いが通じたのでしょう。また、原爆体験者である日本人はもとより、全世界の悲願でもありました。
 私も大友会長のお供をして、日本人2000万人の悲願である署名を携えて、国連へ旅立ったことを思い出しております。
 先ごろ、心配していた「有事法制」が国会を通過し、また「国民保護法制」も検討されています。
 改めて「平和」への決意を深くしているところです。


■2003年7月(323号)

●戦争を語り継ぐことが大切 〜幾多の尊い犠牲を思う

 中川美知子(大阪府地域婦人団体協議会)

 思い起こせば小学生のころ、各家庭の入り口に1枚の張り紙がしてありました。そこには「出征兵士の家」と記されていました。はじめは理解できないでいましたが、5月の田植時や秋の収穫時には高学年の人たちが数人宛に分かれてそちらのお家へ動員され、お手伝いにいったものです。
 そのうち、わが家にも兄の入隊が知らされ、最悪の時期を迎えることになりました。長男であり、両親は覚悟はしていたものの、いざとなると断腸の思いで送り出したのです。もちろん無事の生還を待っていたのにもかかわらず、ある日、戦死の報があり、以来両親は放心状態の毎日でした。
 今、私も子どもをもち、その悲しい気持はよくわかります。毎年7月、8月になりますと、戦争にちなんだ行事が報じられますが、毎日のようにTVやラジオで知らされている争いで、幾多の人々が命を亡くしている現状を拝見し、無益なことはありません。大人の勝手な考えで、小さな夢多き子どもたちを巻き添えにすることは許されません。
 悠久で平和な世界、誰もが生まれてよかったと思える社会に致したいものです。それには戦争の悲惨さや人命の尊さを後世に語り継がなければなりません。
 今日の繁栄、それは幾多の尊い犠牲の上に成り立っていることをわすれてはならないと痛感いたしております。


●「本当の平和を願って」
 
 佐藤 伸子(福島県婦連・川俣町鶴沢婦人会長)

あのいまわしい太平洋戦争終結から
五十数年の星霜が流れ去った
町では戦後五十年を機に
父たちの英霊の戦没者追悼式を切り捨てた
遠い他国の地に果てた若き英霊たちの上にも
空襲や原子爆弾に散った
尊い多くの罪のない命の上にも
ひとしく五十数年の歳月は流れた
やがて風化し、忘却の彼方へ葬り去られるとしたら
どんなにか無念なことだろう

昭和四十九年十一月三日
明日は川俣町戦没者追悼式という前夜
忽然と母は逝った
母の一生を想う時
戦争という狂気に翻弄された過酷な女たちの
悲しみ色に塗りつぶされた歴史が
痛ましく重なり合う

今、平和を享受し
平和の中に溺れてしまいそうな日々に
かつて残酷な青春があり
命を賭して祖国を守ろうとした若き命に
何を報いられるのだろうか

戦うことのむなしさを
戦うことのおろかさを そして
平和への礎石となった多くの命を
消し去ることのできない事実を
戦争を知らない世代に
訴え続けていくことを私は誓いたい

私たち戦没者の遺児が手をたずさえ
五回目の平和を考え戦没者を追悼する会を
いかに若者たちを巻き込もうかと模索する
本当の平和の尊さを、大事さを
生きているかぎり訴え続けていこうと


■2003年8月(324号)

 
●「闇を歩く」 〜 地婦連500万会員が烏合の衆になってはならない

 安田 栄子(奈良県桜井市地婦連会長)

私たちは命じられるままに大和航空隊飛行場の整備から京都大久保の製作所に移動した。
 京都の各大学の学生に混じって乗る車中は足の置き場もなく、人間と人間に挟まって息をしているだけだった。製作所では事務に配置され、旧友と離れ、独りになった。部品の名称を覚え、伝票を書く仕事だったが、他言は許されなかった。
 課長が「可愛そうに、娘と同年や。娘も挺身隊で切符を切っている。I君もN君もすぐ少年非行兵で召される」と言いつつ、わたしたちを連れて裏山にいき、蛸壺を掘るための手伝いをしてくださった。「蛸壺」とは、空襲発令と同時に、その穴に飛び込む一人用の防空壕だった。19歳の命を葬る死場を掘った。Tさんと二人分を・・・。
 後日、Tさんが現場案内をすると言って迎えに来てくれた。監督の中尉に挨拶すると、「可哀想に、Tさんの親友と聞いて見学してもらいたいと思って」と言って、動かない50人乗りの旅客機に載せてくださった。
 「君らが嫁に行くときは、外国旅行ができますよ。もうすぐ戦も終わりです。君らもこの悲惨な体験を生かしてよい家庭を築いてください」
 文学部卒という中尉は、挙手をして去っていかれた。Tさんは耳元で、「日の丸を描いた戦闘機の資材は木材なの。木の上に絹布を張っているの。片道のガソリンを入れて敵艦めがけて突入していくの・・・。16歳前後の少年たちが、弟に見えるの・・・。」
 彼女の両目から大粒の涙があふれ出た。そしてその涙は止まることなく慟哭となり、私も泣いた。
 夕茜の中に童顔に笑みを浮かべて飛び立つ少年。還ることのない少年を思ったとき、「戦争」への怒りで臓腑が張り裂けるのを覚えた。
 生涯忘れることの無い重く深い傷となって癒えることはない。
 「戦争の世紀」から「人権の世紀」へと変わったはずなのに不安は続く。
 地婦連500万会員が烏合の衆になってはならない、と念じている。


●「平和に感謝して」

 熊谷 京子(福岡県鞍手郡会長)

 雨雲の切れ間の日差しも日ごとに強くなり、いよいよ暑い夏がやってまいります。私のような年齢のものには少々こたえる夏の暑さも、元気な子どもたちには、今も昔も変わることなく海や山にと楽しい季節のようです。
 わたしの小学生時代はちょうど戦争の最中で、6年生で終戦を迎えましたので、楽しい夏というよりも、戦争にいった父の代わりに、朝早くから夜遅くまで働く母の代わりとなって、幼い4人の兄弟の面倒を見たことが思い出されます。暗くさみしい思い出です。
 終戦からはや半世紀以上を過ぎまして、豊かで平和な現在の日本では、テレビの画面に毎日のように映し出される海外の悲惨な戦争の映像も、戦争ということばさえどこか実感がないのが現実ではないでしょうか。そして、あまりにも豊かで平和な生活になれてしまい、戦争の悲惨さ、平和のありがたさ、大切さ、生命の尊ささえも忘れてしまっているように感じます。
 こうしている今も、世界のどこかで戦争は続いています。何度も何度も繰り返される過ち。暴力を暴力で制してもまた、同じことが繰り返されるだけだと誰もが気付いているはずなのに、戦争はなくなりません。
 すべての人に、それぞれ愛する大切な家族や友人があることを誰もが心から実感し、互いの生命の大切さ、そして尊さを思い、世界中の子どもたちの笑顔が平和な中で輝くことを願うばかりです。
 日本では昨今、毎日のように人としての倫理感や秩序を失った事件が起きています。豊かさと利便性を追求し成長し続けた日本社会の中で、何か大切なものを忘れているように思えます。生命の尊さ、そして平和の大切さ・・・。
 深く深呼吸をして「平和」と言ってみましょう。「生命」と言ってみましょう。本当に温かくすてきな言葉です。そして、どちらも何にも代えがたく大切で、重く尊いものです。
 戦争のない日本に生きている今だからこそ、その意味をしっかり考えたいものです。


●「年追うごとに意味をもってきた「戦争体験記」集」 〜 多くの若者に読んでもらえる機会を得て

   田中ヨシコ(佐賀県地婦連副会長)

 今しがた、1分間のサイレンと共に黙祷を捧げました。広島が一瞬にして焦土と化したあの原爆投下から58年。19歳で終戦を迎えた私は、耐乏の生活と空襲への恐怖の記憶が鮮明に残っています。
 かつて、特攻隊基地であった知覧の平和館を訪れ、当時の思い出をさらに強くしました。
 戦争末期の昭和20年、爆装した飛行機に片道の燃料で自らが肉弾として壮途につかれた多くの英霊の遺影と、遺品や遺書に接しました。その中で遺書が父母宛に多いのは、17歳から32歳の若さで散華されたからでしょう。これらの遺影を嗚咽しながら拝みました・・・。
 佐賀県の一地区で戦争体験記が作られ、平和集会をされたことに感動し、平成になったころから、あちこちで体験記を作ろうと声があがり、わが唐津でも記憶が風化しないうちに貴重な証言を残そうという声があがりました。そして、婦人会役員は、地区ごとに原稿集めに奔走することになりました。
 数ヵ月後に、戦争体験のある男性21名、女性44名からの登校を頂きました。
 唐津市長をはじめ、社会教育課の協力もあり、平成2年に「平和の潮流」と名づけた戦争体験記が出来上がりました。
 この体験記を作って14年を経た今、つくづくあのとき作成してよかったと思いました。
 最近は、小・中・高校が平和教育の際、戦争中のことを知りたいと語り部を探したり、ある高校の生徒会が、当時の資料があればと、ケーブルテレビで呼びかけました。私は手元に残っている体験記のことを高校に連絡しました。
 高校からはすぐ来宅され、「図書館にでもどうぞ」と差し上げた15部を喜んで持ち帰られました。役に立ってよかった。
 多くの若者に読んでもらいたい。平和の尊さをかみ締めて欲しい。過去の過ちを繰り返さないためにも。


■2003年9月(325号)

●「戦争はいやだ!!12歳の夏」 〜戦争に正義はない、広島で失った二人の友

 大林 恭子(香川県南町羽床婦人会長)

 今年も暑い夏がやってきた。私は7、8月を迎える度にいつも胸に疼きを覚え、落ち着かないのだ。昭和20年の夏が思い出されるからである。私の「12歳の夏」である。
 その当時、私は父の仕事の関係で広島県呉市に住んでいた。女学校1年時の友2人の顔が浮かんでくるのである。
 そのひとりは女学校入学時に始めて言葉を交わした色白で透き通るような肌の美しいOさんである。出席番号が前と後ろであったし、話をしているうちに小学校が違うのにごく近いところに家があることがわかり、急速に親しくなった。通学の往復はもちろん、休日には互いに自宅を訪問しあったりもした。しかし、楽しい日々も二ヶ月で壊れてしまった。
 7月2日未明から始まった米軍機の空爆で、軍都呉市は死傷者多数を出して壊滅した。焼け野原の中を市民の多くは右往左往した。そんな混乱した中で私たち二人は再会した。Oさんは広島市へ、私は呉沖に浮かぶ江田島へ逃れることになった。「また呉で会おうね」と、別れたのだが・・・。
 一ヶ月後の8月6日8時15分、目を射抜かれるような選考でOさんはこの地球から消えてしまった。西の空のピンク色の木の子雲に彼女の魂は乗って去ってしまった。
 8月15日、終戦を迎えた私の家族は、焼け野原の呉に帰ってきた。休校状態だった女学校は9月末ごろ再開。通学し始めたある日、広島の女学校から、頭は丸坊主、いつも鼻血を出している転校生が来た。もう一人の友だ。ちょっとあごのしゃくれた、可愛い人だった。
 一緒に陸上部に入って運動場を走っていたが、始終「疲れた」「鼻血が出る」と休んでいたが、ついに学校へこなくなった。白血病を知れば知るほど、不幸な結末を想像する。
 あれから58年。戦争の火は消えない。テレビの画面を見るたびに、二人の顔がダブってしまう。
 戦争に正義はない。幼子を見るにつけ、戦争はあってはならぬと心につぶやく・・・。


●「花火と空襲」

中村陽子(三重県伊勢市婦人会)

 伊勢市では毎年7月に、宮川河畔度会橋周辺にて神宮奉納全国花火大会が開催されます。我が家は南のはすれの高台にあるため、外宮の森のかなた、高倉山、三郷山の夜空を彩る花火を見ることが出来る。打ち上げられるものは「ああ、綺麗だなぁ」と見ておりますが、仕掛け花火、下物は山にさえぎられて見えず、稜線を赤く染め、その下の音、燃え上がる火・・・・
 58年前の空襲とオーバーラップして、あの時をいやでも思い出させてくれます。
 あの時、私は鳥羽におり、高女3年生、警報の出る度に救護袋を肩にかけ、救護所に走るのが任務でした。ですが、あの夜は家にいました。B29の腹に響くグオーングオーンという音が聞こえて間もなく、向かい側の桶の山の向こうに、打ち上げ花火の落ちるごとく、無数の赤い玉が降りそそぎ、そのうちに、ドーン・ドーンの音と共に、山が燃え上がり、あちらこちらに火柱が立ち、「山田(現・伊勢市)がやられる、山田がやられる」人々の声とともに、あの炎の阿鼻叫喚の巷を思い、手を合わせながら、明日はわが身かと思っていたのが、私の目にした空襲ですが、実際にそのとき逃げ回った人にお話も聞きました(略)。2日2晩燃え続け、3日目に鎮火し市内は60%が灰燼と化しました。
(Nさん談)近くの芝居小屋に焼夷弾が落ち、火の海の中、布団をかぶり親と一緒に、宮川まで逃げ、そこで3日3晩過ごした。家は焼けて無く、近くの鶏小屋の軒先で住宅が出来るまで長らく過ごした。
(Sさん談)宮町に住んでいて、空襲になるたび宮川堤に逃げた。逃げ遅れ度会橋を走ってくる人が機銃掃射でやられ、橋から2人落ちて行ったのを見た。(略)
 あれから58年経た今、地球上のあちこちに戦火を浴び、逃げまどい、肉親を亡くし、住む家もなく、生きることに絶望する人々のいかに多いことか・・・。
 戦争ほど悲惨なものはない。私どもはこれを伝えていき、全世界の恒久平和を心から祈りたいと思います。


■2003年10月(326号)

●「金州に生きた日」 〜対等な信頼関係に基づく日常の交流活動がいかに大切か

  緑川 たい (長野県連合婦人会)

 私は終戦を南満州遼東半島の関東州で迎えました。中国からの租借地で、内地の1県と同じ行政でした。「日本人の手で米作りを」の計画に賛同した義父は同士と渡満し、官民有地合わせ、百町歩の村づくりに心血を注ぎました。
 民有地へは現地の人に2400円を支払い、相川村と命名、塩分の多い地帯で何年も苦労の末、地下水を掘り当て、水のかけ流し法により稲作を成功させ、私が嫁いだ昭和18年には1戸15町歩の経営者になっており、夫も父から任されていました。
売買による民有地の取得、塩分を緩和する稲作条件を整えた事、手作業中心の米づくりに周囲の中国人と対等な契約労働による交流を深めたこと等が、終戦後の混乱中、多くの中国人から助けられた源でした。(中略)
 昭和21年3月、突然家の立ち退きをソ連軍に命じられ、大正5年以来築いた愛川村は週末を迎えました。(中略)私たちはまた、別の中国人に助けられ、大連に出て多くの日本人と共に高梁で命を継ぎ、昭和22年、ようやく日本の土を踏みました。(中略)
 日本で再び取り組んだ開拓も、台風災害でくじかれ、町工場で15年働き、田畑2反歩を耕作、夫の遺族年金と私の年金で生計を立て、80歳の今日を迎えました。
 対等な信頼関係に基づく日常の交流活動が如何に大事か身をもって経験した私は、小さなアピールですが、それを今後声に発してまいる所存です。


■2003年11月(327号)

●「私の人生を変えた終戦」 〜暴力の連鎖からは何も生まれない!

  中嶋 喜代(秋田県地域婦人団体連絡協議会・会長)
 
 昭和20年8月15日は、私にとって忘れることの出来ない日である。戦後58年を過ぎてもあの日のことは、ハッキリと脳裏に焼きついている。私は結婚し、満鉄保健婦として、満鉄職員家族の診療、伝染病の通達などが職務であった。(略)
 8月7日、とうとう夫に召集令状がきた。以後私の人生には、大きな変化がじりじりと迫っていた。関東軍が社宅内に駐在し、次々と応召者が増えたため社宅内から男性が消え、女と老人・子どもだけとなって、不安な日が続いた。
 そして、8月15日、私は天皇陛下の敗戦を告げるラジオの前に正座したのだった。自分の耳を疑った。共に玉音放送を聴いた関東軍の兵士達も拳を握りしめ、男泣きする姿は痛々しかった。私たちも声をあげて泣き崩れた。「われわれ関東軍は負けるはずがない」と叫んで何処かへ去って行ったあの人たちは、ソ連に連行されただろうと噂された。
 敗戦と同時に、日本人は悲惨な逃亡生活を余儀なくされ、敗戦に惨めさが絵のような現実となった。帰国するまで1年半の間に、妹の死、自身の出産、我が子の死があり、仲間の人たちとの難民生活は忘れることができない。
 何とか生きのびて帰国できたが、二度と再び悲惨な戦争はあってはならないと思う。
 暴力の連鎖からは何も生まれない。明日に向かって生きる子どもたちがすくすく育つ世界をねがい、「真の平和・豊かさ・幸せとは」をあらためて問い直したい。


●「戦争はだめ 美化は尚だめ 風化だめ」 〜戦時下体制の教育と青春、そして韓国を訪ねて・・・

  宦@浩子(鳥取県連合婦人会・会員)

 鳥取県の山奥で過ごした13ヶ年の学生生活は国策によって植えつけられる皇国人民の精神を素直に胸ふくらませて(お腹は空いたままで)受け入れた青春真只中であった。
 戦勝祈願の神社参拝、出征兵士の歓送、旗行列、千人針、慰問文(この中の一通が私の人生を変え、4児を得て家庭をもつことに)、稲刈り、田植えなど、格好の労働力であった。
 その合間に受ける授業は全教科書とも「聖戦の意義」に始まって、「戦勝への決意」を説くのに必死であった。今思えば教授たちも随分無理されたことだろう。
 私たち師範生は、男性教員が召集されたあとの責務重大とて、軍需工場へ動員されることもなく、地理的に直接の戦禍も受けず卒業した。そして徒ならぬ戦時下体制下で育まれた友情は半世紀経た今も、肉親以上の絆で結ばれている。
 が、次々と解明される侵略戦争のおぞましさを知るにつけ、それなりに青春を謳歌し得たことに対する、贖罪の気持にかられ、先年縁あって韓国へ取材に赴いた。植民地時代の悲惨さを直接多くの村人から聞けた。
 中でも一番聞きたかった従軍慰安婦の話、元校長の金さんはさわやかな日本語で、「総督府から訓練せよと命令された女性徒は、結局だまされ慰安婦となり、生還したのは3人位か・・・」など、まざまざと無念さを語ってくれた。
 未だ救われることのない元慰安婦たちに同年輩の女性として何と慰め、どう謝ればよいのか?ところが「彼女たちも商売であった」「日本植民地時代によいこともやった」と言わしておけばどこまでも傲慢で恥知らずの政治化が続出して、侵略戦争を美化し始め、遂に他国の戦争に加担しようという。戦争を知らぬ世代の凶悪犯罪の激増は、大人たちの無反省さが元凶だと思えて仕方ない。


■2003年12月(328号)

● 「悲しい歴史は繰り返すまい」 〜戦争を体験したものとして、平和を守ることは義務

  及川 コマ(北海道女性団体連絡協議会・幹事)
  
 「日本はお金だけ出して血は流さない」といった一部の国の批判に惑わされたように、イラク特措法が成立した。
 これによって自衛隊を海外に派兵するという。7月26日の北海道新聞には「500人規模とされる陸上自衛隊の第1陣の派兵は、すでに北部方面隊を中核にすることで検討が進んでいる。」と報じられた。
 夫や息子を戦地に送り出さざるを得ない、でも、行ってほしくない!イラク派兵となるといわれる自衛官の家族は複雑な思いを抱きながら「イラク派兵」準備の進行を見つめていることを思う時、私の胸も痛む。
 「万が一のことがあれば取り返しはつかない。子どもも小さいし。命令に背けばクビになるだろうが、夫には自衛官を辞めてもらうように言いたいとおもっています。」と言い切った妻もいた。
 戦後58年、太平洋戦争で多くの人々が犠牲になった。毎年8月になると終戦の日を思い出す。じりじりと照りつける太陽の下、疲れきった大人の顔が浮かんでくる。
 私には、戦争は正義ではなく破壊そのものとしか思えない。
 悲しみと憎しみだけが残るだけだ。
 戦争を体験した1人として、平和を守ることが一人ひとりの義務であり、このことを家庭、学校教育、そして地域社会を通じて戦争をおこさない平和の輪を広げたいと思っている。
 誰にでも出来ること、それは、戦争のことは本などを通してしか知らない子ども達には悲惨さと愚かさを語り伝え、幼い子には、戦争にまるわる絵本を通じて戦争のむごさ、心の痛みに共感し思いやる心を育むなど、悲しい歴史を繰り返さないために、戦争の容認をしないための活動を続けていきたい。


●「子どもを再び戦場に送ってはならない 〜いまこそ日本国憲法の精神を大切に」

  三浦 雅子(山梨県連合婦人会)

 私は昭和11年、東京の浅草で生まれました。そして国民学校へ入学、母の手作りの可愛い救急袋を方に掛けて登校する。警戒警報が鳴るとコッペパンを1個先生から頂いて帰るという日が続きました。大人達は防空演習―バケツリレーや竹槍の訓練、近くの神社で出征兵士を送る集いが行われる。「お国のために頑張ってきます!」と気持を隠して挨拶する若者、国防服姿の男の人たち、白い割烹着に国防婦人会のたすきをかけたお母さんたちに見送られる。私も母に手をひかれてその中にいました。やがて学童疎開をせよ、といわれ父は病弱な私を手離せないでいました。そんな時、父の親しい方が、「富士山の麓で安全な場所だから、私の実家へ来ないか」と誘ってくださいました。私が2年生になった時でした。
 3月10日、東京大空襲に父と祖父母が遭遇し、祖母が亡くなりました。終戦になり、やや落ち着いた時、父は私に見せておきたいと浅草の住んでいた所へ連れて行ってくれました。一面焼け野原になっていて、黒こげの家の柱が積み重ねてあったり、こげたトタンで囲った鶏小屋のような家に人が住んでいました。「戦争は絶対にしてはいけない!」と父は一言云いました。その言葉が今も私の心に響いています。
 戦争のたびに多くの尊い生命が失われています。アフガンでもイラクでも多くの子ども達や若い命が消されました。
 多くの犠牲を経て日本は今、世界に誇れる憲法をもっています。私たちの日本国憲法は再び、戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意しています。今こそ日本国憲法の精神を大切にしなければならない時と思います。力を合わせましょう。


●「忘れられない車中でのおにぎり 〜引揚者としてわが子の遺骨を抱いて」
  中嶋 喜代(秋田県地域婦人団体連絡協議会・会長)

 昭和21年初秋、私は子どもの遺骨を胸に抱き、よれよれした姿で博多港に上陸しました。引き揚げ船の中で創造していた通り、内地は不安定な社会状況でした。船の中でどんなものを食べたか忘れてしまいましたが、忘れることの出来ない「思い出」があります。
 博多駅から引き揚げ列車に乗って上の駅で乗りかえましたが、車中で年老いた女の方からいただいた白いお米のおにぎりのおいしかった事、何ヶ月ぶりかで口にしたおにぎりを分けあって食べた時の感動は、50年を過ぎた今でもはっきり心に残っています。お名前を聴く事もなく夢中でした。あの時の感動は忘れられない私の大切な宝物です。
 最近は、全国どこを訪ねても地域性豊かな食事をいただける時代になりましたが、あの列車の中での1個のおにぎりは、月日を経ても忘れられない最高のおにぎりでした。


■2004年1月(329号)

●新年のごあいさつ〜 「一人ひとりの命を大切にするために」

水野三重子(全地婦連・副会長、岡山県婦人協議会・会長)

 春を思わせるあったかさの中でお正月を迎えました。岡山は晴れの国なのです。じんわりとからだにしみ込む太陽の光に、2004年の新春はめでたくおだやかです。
 21世紀は平和の世紀といわれながら、私たちの周りから平和はむしろ遠のいていきます。
 次々にイラクへ向けて送り出される自衛隊員は、戦場に向かう兵士の姿と重なります。
 戦争はしてはいけない。我が子や恋人や夫を戦場に二度と送り出すまいと固く誓った女達はどこへ行ったのでしょう。目を転じたとき、そこには全国500万の婦人会員のみなさまがおられるではありませんか。一人ひとりの命を大切にすることこそ、私たちの最も大切な役割だと思います。その役割を果たすために、今こそ会員として連帯と結束を強くして、国を変える勇気と行動力を持とうではありませんか。


● 新年のごあいさつ 〜
「全地婦連の活動はすべて平和あってこそ」 〜世界が評価する憲法の下で

川島 霞子(全地婦連・副会長、東京都地域婦人連盟・会長)

 2004年の春を迎え、皆様のご健勝をお祈りいたします。
 戦争の世紀と言われた20世紀の終焉と共に、心豊かな静かな新世紀をと念願しておりましたのに、世界も日本も私たちの願いと逆の方向へと進みつつあります。私達は一度原点に戻り、なぜ日本国民は平和憲法を選択し、60年近くこれを守り抜いたのかを考えるべき時と思います。
 1999年オランダ・ハーグで開かれた世界市民平和会議と次の年の国連ミレニアム・サミットにおいて、日本国憲法の平和条項は高く評価され、この様な平和憲法を各国でも作るべきであると決議され、呼びかけがなされました。私たちの現憲法は、まさに未来をみすえた誇るべき内容を持っています。
 私たち全地婦連の活動のすべては、平和あってこそ成り立ちます。家庭を愛し、地域を思いやる私たちなればこそ、平和を守るためには勇気をもって行動したいものと、切に念じております。


■2004年2月(330号)

●「戦争を知らない子どもたちへ 今、伝えなければ」

  加藤 ミサ子(新潟県婦人連盟・会員)

 上越市にも捕虜収容所があり、空襲にあったり、収容所に努めて居て終戦後に立場上戦争犯罪者として処刑された人があった事、当時の人々の生活等を、毎年聞く戦争と平和を考える集いで学習している。今年はと思ったが、年々戦争を体験した人が減少し戦争の悲惨さ、惨めさを物語ではなく、実感として伝えることが難しくなると思い聞くことにした。
 今年は、子ども達に戦争があった事、悲しい思いをした人が多くあった事を知って、戦争とは、命の大切さとは、今の幸せと平和を考えて欲しいと、2つの戦争を体験された方の話を中心に学習した。
 22歳で召集、中国での戦争は、思い荷物を背負い、何日も歩き続けた事、敵に攻められ地面に伏せ命は助かったが、一緒に伏せた友が隣で死んでいた話、1ヶ月がかりでやっと中国から帰国できた喜び、東京で暮らしていたが、今度は東京大空襲にあい、身一つ、火の海の中を命からがら逃げた事、背中の赤ちゃんが焼けて死んでいるのを気付かず逃げるお母さん、川の水は火災のため熱く、飛び込んでも火傷か死ぬ人が居たこと、浅草専売局の前は死体の山で一杯、地獄のような光景に生きた気がしなかったと話して下さった。
 話をされた88歳のおじいさんの眼の涙、先に見たビデオ「広島に一番電車が走った」「東京大空襲」と重なり、子ども達は、本当にあった話なのか、18歳で特攻隊員になり死ぬなんて可哀想すぎる、何も悪いことをしない多くの人が死んでいったが、だれが戦争を始めたのか、なぜ止められなかったのか、質問や感想が多く出た。
 私たちの生き方を問われているようで胸が痛んだ。最後に鶴を折り、地球より重い命を守るために、戦争を起こさないことを亡くなった人に約束した。


●「あの時を忘れることなく」 〜死を覚悟しての学徒動員のつらい日々
  高瀬 和子(石川県婦人団体協議会・副会長)

 「必勝」を信じ、「欲しがりません、勝つまでは」を合い言葉に、国民必死に生きた悲惨な戦争中の記憶は全く筆舌につくしがたいもの。が、その日々の中に人生の一時期があり、その実態を後世に語り伝えてゆく使命感があるのも事実です。平和に馴れ、召集令状、空襲、学徒出陣等のいたましい言葉は死語となりましたが、その大きな流れの中で生きた貴重な体験を風化させることなく戦争の時代をふりかえり、今の豊かさを、平和のありがたさを噛みしめたいと思います。
 戦局の厳しさに比例してすべての物資の欠乏が目立ちはじめました。土蔵の押入れに積んであった手織りの紺の木綿の夜着は日常着のモンペになり、家紋を染め抜いた白い部分は防空頭巾の裏です。
 こんな時代に就職したわたしに、母は父の二重マントでオーバーを仕立て自分の毛織のコートで洋服を作り、新しい門出を祝ってくれました。殺伐としたすさびがちな心に、ほのぼのとした幸せ感を味わったのを今でもはっきりと覚えています。
 学徒動員で富山の不二越で鉄砲玉づくり。夜中に「空襲警報」が鳴ると一斉に防空壕へ、みんな死を覚悟しているので虚無的で無口。
 私はからの頭の中でいつも「死ぬまでに一度家族に会いたい。そして今までのことを聞いてもらいみんなで真白なご飯で赤ん坊の頭のようなおにぎりを母に握ってもらって・・・」と漠然と思っていました。寮へは、無いなかから工夫した母の食糧定期便が届きました。軒先に防火用水を置き砂袋を積み重ね空襲に備えていた毎日、私は8月15日午後から竹やりの練習に行く途中でした。電燈に布をかぶせ窓には遮へい幕をつり真黒な中で息をひそめた生活・・・。想像できますか?
 好みの流行の衣類を身につけ、好みのぜいたくな食事そして好みの和洋折衷の家で生活できる幸せは、先人達の耐え難きに耐えて入手したものである事を忘れてはならない。


■2004年3月(331号)

●「戦争を知らない若い人たちへ」 
芝田 滋子(千葉県連合婦人会・理事) 
 
 「真白き富士の気高さを心の強い盾として」銃後を担う女性が互いに励まし合う、心と心が通じ合う歌でした。
 私は看護婦でした。同級生は二人戦場に征きました。男性はみな出征して、身体の弱い人ばかりが残された。製鉄工場の現場で母と二人で工員の世話をしながら、軍需工場で働きました。食べるものがなく、稗(ひえ)の中にガソリン臭い豆かすを砕いて入れた食事。とても食べられません。でも工員さんはむさぼりついて食べました。たまにトウモロコシが入ると、喜んで食べました。
 母も私も食べられません。水ばかりで、若かったから顔を見合わせて「勝つまでは頑張りましょう」と36kgの小さい二人の身体を支えあってきました。
 真っ赤に燃える火の海のような東京の空から最後の空襲、B29の大軍が市川市に焼夷弾をバラバラと落として行きました。やられたと思って、防空壕に飛び込み助かりました。翌朝薄暗い中に東京の知人夫婦が、ご主人にはお釜を被り、奥さんは鍋を被って、防空頭巾も焼けて、顔も分からない真っ黒な人間。目は真っ赤、防空服はぼろぼろ、錦糸町から路線伝いに歩いて来たと言って、へたへたと座りこみました。急いで服を脱がせて、水をかけて洗いましたが、全身火傷。幸いに一升瓶に馬の油があったので全体に塗り、水、水と叫ぶので水を飲ませて寝かせました。二人とも命は助かりました。
 落ち着いてからのこと。火の中を逃げている熱さで次々と川に飛び込む。川は人で埋まっている。重なり合って飛び込んでいく。「助けて」といわれても自分も火の中。道には歩けない人が一杯。「死んでいたのね。それを踏み越えて走った。」と話されました。
 祖母が翌日東京に行ってみた。「一面焼け野原。焦土の中に鉄の金庫と焼けた人間の臭いがいっぱい。とても立って見られない。両手を合わせて急いで帰って来た。悲惨な光景。川の中も死体がいっぱいで見えない。」
 戦場では若い青春が日本を守るために死んでいった。優秀な尊い命を失った。元気で生きていたら、現在の社会にどんなにか役に立つ若者がいただろうと思うと、戦争を憎み、恨まずにはおられない。平和は有難い。自分たち1人ひとりが努力して、これからの平和を作り、守っていかなければならない。平和に酔ってはいられない。どうぞ戦争を知らない若い人たち、恐ろしい愚かな戦争を絶対に起こしてはなりません。この美しい日本の平和を守って下さい。


■2004年4月(332号)

●「平和を語り継ごう」 〜機銃掃射に撃たれて死んだ学友を思って

  関根 静子(茨城県女性団体連絡会・副会長)

母校の創立100周年記念式典に参列し、制服姿の後輩たちの生き生きした様子に接し、しみじみと平和の尊さを改めて感じた。
 半世紀も過ぎてしまったが、入学した年の12月に太平洋戦争に突入し、終戦の年にこの学校を卒業した。在学中の後半には学校が軍服縫製の工場になり、校庭は防空壕と芋畑と化し、防空頭巾・布製のかばん・白い鼻緒の下駄・もんぺ姿で通学する毎日となった。食糧もさつま芋や大豆入りのご飯や乾パンが主食となり、毎日昼夜を問わず空襲の連続でした。学校で縫製の仕事に従事する者、大部分の学友は一駅離れた軍需工場に動員され、そこに戦闘機が飛来し、防空壕に逃れる間もなく機銃掃射にあって2人が死亡した。この学友の墓碑には戦死という文字が刻まれており、墓参するたび戦争の悲惨さや、今日まで生き延びてこられたことの幸せを感じるとともに「平和の大切さ」を噛みしめている。
 戦争中に青春を過ごし、戦争と平和を最もよく知っている私達は「平和の尊さ」を何時までも語り継いで行く責任がある。
 私たち茨城女連は、その活動の一環として「平和のつどい」を毎年開催し、戦争の残虐性や悲惨さを幼少老若男女に伝え、平和を祈って千羽鶴を折り広島や長崎の原爆被害者や戦争犠牲者にささげる活動を行っている。
 世界には今なお戦乱や政治的混乱によって平和が保障されない多くの人々がいる。
 日本人の多くは半世紀以上にわたって国情も安定し国民は平和を満喫し、それが当然と考え満ち足りた生活に浸っているが、最近の世情は平和や豊かさとは裏腹に、人の心は乱れ、眼を覆うような事件や犯罪が横行し、世の中は混乱している。こんな時代であればこそ誰もが安心して暮らせる社会づくりが求められている。今一番日本人として最も考えなければならない事柄である。平和とは誰もが安心して生活出来ることなのだから。


■2004年4月(332号)

 「平和を願う思い」 〜毎日空襲から逃げまどって

  下田 久江(群馬県地域婦人団体連合会副会長)

 あの日も暑い日でした。広島に原爆が落ちてから59回を迎える今年、胸たぎる思いです。
 戦中に育った私です。学校の寮は浦和市内にあったので、夜見上げる東京大宮の空は赤く染まり不気味だった事を覚えています。恐ろしい夜が明けると、大きな荷物を背負って東京方面から逃げて来る人々で道はごった返していました。顔も体もススで黒くなり血を流している人もいました。
 私達学生は麦やコーリャン入りのおむすびを道端で配りました。嬉しそうにほおばる人たちの後姿に涙があふれました。
 大人も子どもも栄養失調でした。闇市とか買出しとかいう言葉が聞かれ、木の葉草の根まで食べられるものは何でも口にしたのです。そして連日の空襲から生きるために逃げまどう毎日だったのです。
 ある日から「都の西北」と校歌を歌いながらザックザックと靴音をそろえ行進していた学徒の姿が見られなくなりました。敗戦となってのでした。驚きと空襲はもうないという安堵感の入り混じったうつろな日々をおぼえています。
 それからは、今の子ども達には想像もできない食糧難という生きる事への戦いが始まりました。小さい妹に食べさせてやりたい一心で盗みをする子どもの事件、正直に生きて、やせ細って「亡くなったよ」というニュースの聞かれたのもこの頃でした。一度しかない人生の夢も希望も奪い取られて「生還を期せず」と叫んで行った学徒の「ザックザック」という靴音が今も私の耳の底に残っています。消えることはありません。







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