530号(20年10月)

第51回北方領土復帰促進婦人・青年交流集会

根室から考える北方領土
― 返還へ 未来志向の対話と交流 ―

岩田会長を中心に「四島の架け橋」をバックに記念撮影
近くて遠い北方領土問題について小田嶋英男館長より
レクチャーを受ける参加者たち=納沙布岬・北方館にて
根室市長に募金を贈る岩田会長

 2020年9月18日から20日の日程で、根室市北方四島交流センターで行われた「第51回北方領土復帰促進婦人・青年交流集会」に会長以下5名が参加してきました。

 集会当日は1年に何度あるかという好天に恵まれ、納沙布岬からは、暖かな日差しの中、3・7km先にある歯舞群島貝殻島にある灯台がくっきり見えました。また、真っ白い日本の巡視船越しに、国後島のラウス岳、それに連なる爺爺(ちゃちゃ)岳までぼんやり島影を現し、改めて距離の近さを感じました。
 「北方館」小田嶋英男館長からは、昭和20年8月15日の終戦の後、ソ連軍が北方四島に攻め入ってきて、占領が始まり現在まで返還されていないこと、そして2019年には中国ファーウェイ社の協力でサハリンから光ケーブルが引かれ、ますますインフラが整備されてロシア化が進んでいることなど伺いました。館長が「北方領土のことは、根室、北海道だけの問題ではない、日本国皆さんの問題として捉えて」と最後に言われたことが印象的でした。
 開会行事ではご来賓の紹介が行われ、北海道北方領土対策根室地域本部副本部長小松靖史氏が「今年はコロナウイルスの影響でイベントがすべて中止される中、ようこそおいでいただきました」と歓迎、「元島民も17000人おりましが、現在では6000人になっており、島に帰ることなく、亡くなっていく方のことを思うと無念です。北海道も返還に向けた気運醸成に努めて参ります、共に頑張りましょう」と力強く挨拶されました。
 続いて北海道7区選出の衆議院議員鈴木貴子氏から頂戴した激励挨拶文が披露され、開会行事の最後に全地婦連会長岩田繁子から根室市石垣市長に「祈りの火募金」が贈呈されました。


温かなおもてなしに感謝

 昼食には根室市長様から花咲ガニの入った「鉄砲汁」の差入れもあり、温かなおもてなしに舌鼓を打つとともに、開催に向けて根室市職員の皆さまからいただいた行き届いたお世話に心から感謝いたしました。
 今年は特に開催が危ぶまれる中、途切れることなく開催できたことに改めて安堵しました。

主催者あいさつ


全国地域婦人団体連絡協議会
会長 岩田 繁子


 昭和44年から始まった日本青年団協議会と根室市で行ってきたこの集会も今年で51回目、昨年50回の区切りを行い、今回は再スタートの年でした。コロナウイルス感染拡大の懸念から参加者が大変少なくなりましたが、北海道、根室市のご協力のもと開催できることを感謝申し上げます。
 最近の日ロ交渉は好転とは言い難く、また戦後生まれの人が圧倒的多数となったこともあり、返還に向けて交渉は困難ではありますが、官民が地道に手を取り合って、外交交渉の後押しとなる運動を続けて参りましょう。


基調講演 根室から考える北方領土
根室市長
石垣 雅敏氏


 皆さん、こんにちは。根室市長の石垣です。第51回の北方領土復帰促進婦人・青年交流集会、皆さまのご来根を心より歓迎申し上げます。
 昭和44年8月5日、6日両日にわたり、全地婦連、日青協の方々が現地視察をされ、当時の市長安藤石輔のお墓に復帰実現を誓われ、翌、昭和45年8月3日「北方領土復帰実現・婦人・青年集会」として今日につながる第1回目の集会が行われました。以来、一時も途切れることなく、本年で51回目の集会として開催されますこと、岩田会長様はじめご参加の皆様に心から敬意と感謝、そして歓迎を申し上げます。
 根室での最近の話題は、テニスの大坂なおみさんの全米オープン優勝の快挙です。お祖父さんは根室漁協の組合長ですが、そのお母さんが女傑で、全国漁業婦人部連合会の会長を務めた大坂みつよさんであり、田中角栄元総理に「大坂の母さん」と言われた方です。先ほど昭和45年の第1回集会の話をしましたが、その時の現況報告は、その大坂みつよさんが務めております。つまり大坂なおみさんは、元島民三世になります。昨年なおみさんがお墓参りに来ましたが、組合長も「なおみは母のように意志が強い」と話されており、そのような繋がりを感じていただきながら、「根室市から思う北方領土問題」についてお話しさせていただきます。

 私は根室市の生まれで、祖父母は富山県黒部市から根室に移住して参りました。根室の漁業の開発は富山県の方々の力が一番で、北方領土も同様であります。母は大正2年生まれで、私が子供の頃、根室や志発(しぼつ)島での漁業の話しや、島での話もよくしておりました。
 昭和20年8月15日正午、NHKの玉音放送を聞き、根室や北方四島の住民は涙しながらも「戦争は終わった。これで漁に出られる」と思ったものの、すぐにその思いは打ち砕かれました。
 北方領土占領は日本が終戦を迎えた後の8月18日、カムチャッカ島からソ連軍第2極東軍が進軍し、最初の攻撃地シュムシュ島には、日本軍守備隊がおりましたが、終戦の報を受け武装解除を進めておりました。そこに突然の攻撃であります。島には日魯漁業の缶詰工場があり、2500人の従業員がおりました。その中には函館高女を卒業したばかりの女子挺身隊も400名おり、何とか彼女たちだけでも本土に戻したい、そんな思いで攻撃が続く中、必死の援護、応戦で独航船20数隻に彼女たちを乗せ、5日後に北海道に無事入港したとの打電を受けたとのことであります。
 また、スターリンは北海道の半分を占領したいとの思いでありましたが、初めの戦闘で足止めをされ、また、アメリカの反対もあり断念したとのことであります。記録では諸説ありますが、ソ連軍の死者が3000名、日本軍が300名、ソ連軍の被害が甚大でした。
 その後、日本軍守備隊長は停戦を決意し、8月23日極地停戦協定が行われ、25日までに日本軍はすべての武器の引き渡しを終了し、ソ連軍は南下を始めます。南下したソ連軍は択捉島手前のウルップ島まで占領し、引き返します。しかし次に別の部隊が28日に択捉島に侵攻し、9月5日までに北方領土も不当に占拠されました。
 ここからは私の尊敬する得能さんの出番ですので、託したいと思いますが自分の小さな船で根室に逃げた方、島脱出の途中で銃撃を受けて亡くなった方、昭和20年中に島の住民の半数が島から出ましたが、択捉島など遠い人は監視が厳しく脱出できなかったために半数の人が残りました。
 島に残った島民は、昭和22年から24年にかけて、日本に強制送還されております。強制送還にあたり、ソ連軍は島民に@島に残りたいものは、ソ連人とする。A日本人を選ぶものは、日本に送還する。もちろん、全員がAを選び、以来北方領土には日本人は一人もいません。得能さんもそのお一人です。
 なぜ、北方領土に留まらなかったのか、と訊かれることがあります。「日本人が残らなかったから、住んでいないから返還が実現しないのだ」という方もおります。強制送還のことを知っていただきたいと思います。
 この状況の中で、当時の根室町長安藤石典氏(明治19年鳥取県倉吉市生まれ)は、高等小学校を卒業した後、研志塾で学び、その後上京し法律学校に学びます。後に北海道巡査教習所を終了し、巡査として羅臼町に赴任し、その後昇進試験を経て、札幌勤務に。安藤は警視まで昇進し、この時根室町長に請われます。根室町長には昭和5年8月1日に就任、当時の根室町の人口は1万8千人、隣接の和田、歯舞村両村を併せると約2万8千人、根室港を中心に資源豊かな千島の島々と大きく結びつきながら、その母都市として発展を続けておりました。
 安藤町長の人柄は、職員にはおっかない親父として、町長自ら毎日最後まで役場に残っている仕事熱心な町長でありました。
 昭和20年7月14日朝5時ごろ爆音が聞こえてきて、当直が久しぶりに「飛行機だな」と思って空を見上げると突然の攻撃、慌ててサイレンのスイッチを押したと述べております。翌15日、のべ130機の艦載機グラマンにより午前5時から午後4時半まで空襲が続きました。この結果、明治2年に開基された北海道で最も古い歴史を積み重ねた根室の市街地の8割を焼失し、死者199名、行方不明者170名の尊い多くの命が失われました。根室復興を描く安藤にとってソ連軍の攻撃は我慢のならないものであり、祖先が築き上げてきた平和な生活は一瞬にして打ち砕かれてしまいました。安藤は色丹島で牧場を、択捉島で缶詰工場を経営しており、島民の不安は痛いほどわかります。10月初旬には国後島泊村村長沢田喜一郎がソ連兵の略奪に抵抗して射殺、11月には色丹島居住者児玉文吉と岩崎義雄が家財道具を取るため島に小舟で近づいたところを射殺されます。
 11月になり、安藤のもとへ小泉千島連盟理事長の父、色丹島の小泉秀吉さんが訪問し「ソ連軍は北千島で占領を終えた、と宣言した。それが歯舞群島まで入ってくるとは不法占拠だ」と訴えました。その言葉を聞いた安藤は「よし、マッカーサー元帥に頼んで米軍に進駐してもらおう、アメリカなら後から返してくれるかも知れない」と思い立ち、国後、択捉、色丹、歯舞は日本固有の領土であることの歴史的根拠を明快に記した北方領土の陳情第1号である「北海道・附属島嶼・復帰懇陳情書」を美幌の進駐軍に届けましたが、その当時郵便事情も悪く、マッカーサーの手に届いたかは不明です。
 その後、日比谷のGHQに行きマッカーサーの腹心であったホイラー大佐に面会、領土の復帰を訴えながら「無条件降伏した国民がなんと言うか」と、どやしつけられると思っているところへ「あなたたちが持ってきた問題は日本のために非常に重要であると信ずる」と好意的な口調でしたが、「しかし、これを今取り上げて行動するわけにはいかない。我々は現在ソ連との間でドイツの戦況をめぐる対立があり、同じ問題を極東に持ち込みたくないのだ。従って我々がサインするまで、この運動を表面だったものにしないで欲しい」と言われました。後に1989年まで続く東西冷戦はこの時すでに始まっていたのです。安藤は昭和30年、享年69歳で亡くなるまで根室の地から北方領土返還のため、圧倒的な熱意で陳情を重ねてきました。
 現在の日ロ関係は、安倍総理により27回の首脳会談が行われましたが、残念ながら具体的な結果は出ていません。平成4年、ビザなし交流が始まった時の日ロ間の経済格差は、名目GDP日本の経済力はロシアの42倍でありました。そして現在は3倍であります。これまでの経済優位を生かしての交渉では解決しない、安倍総理とプーチン大統領との信頼関係と共通認識である「領土問題を解決して、平和条約の締結」、その実現しか解決の道はないと考えております。
 菅新総理には、安倍外交を継承、根室市民はこれが最後のチャンスとの思いで北方領土問題が動き出すことを期待しております。なぜならば断腸の思いで島を追われた島民1万7291人のうち6割を超える方が他界され、平均年齢も85歳を超えています。北方領土問題を先送りすることなく、まさに今、解決するための選択、覚悟が必要と考えるものです。そのためにも更なる国民世論を結集し、大きな力にしなければなりません。
 改めて51年にわたりまして、根室市民に勇気と激励を頂いております。皆様のお心の積み重ねに心から感謝申し上げ、また共に返還運動に邁進することをお誓い申し上げ、私の話を閉じさせていただきます。ありがとうございました。


講演 「元島民の想いを受け止めて」
講師 得能 宏氏


 全地婦連、青年団が51回続けてこられた活動に心から感謝申し上げます。
 私の祖父は24歳から色丹島で漁船を持ち働いておりました。その祖父が老齢になり、ソ連軍の占領によって全財産を奪われ、翌年失意のうちに島で亡くなりました。今になって祖父の無念がわかります。祖父の仕事は捕鯨場から肉と臓物を買い取りして加工する仕事で、年間200頭くらいのクジラを扱っておりました。
 私は11歳で終戦、それから故郷を思わない日はありません。

◇ ◇ ◇

 昭和20年9月1日、2隻のソ連軍がやってきた。私はてっきりアメリカ軍かと思っていたら、それはソ連軍だった。何をされるか分からないという恐怖を抱いた。
 私が小学5年、弟が3年生の時、学校にソ連軍が連発銃を提げて土足で教室に入ってきた。その時、島の各所で600名のソ連兵が一斉に、方々を制圧していった。女性は凌辱されないよう、防空壕や押し入れの中に隠れ、間に合わず隠れきれなかった人は病人のふりをして、難を逃れようとした。
 その後、ソ連軍の家族もやってきた。それに伴い自分たちの家も奪われ、精神的にも打撃を受けた。ソ連軍の子どものためにと、学校も奪われそうになったが、校長先生と女教師が頑張って、日本人とソ連人と両方で学校を使うことになった。その時、日本の軍隊が2年分の米を置いていってくれており、食料には困らず助かった。
 色丹島に残った人は、先がまったく見えない中、とても不安であったが「もう少ししたらアメリカ軍が来る」ことを望みに頑張っていた。
 昭和22年の秋には、「日本に帰る」か「ソ連人になるか」の選択を迫られた。当然日本人であることを全員が選んだ。
 島民はモッコに入れられ、クレーンで釣り上げられて貨物船の狭い船内に押し込められた。「いずれ帰ってくるから」と口々に言って島民は島を出た。
 島から貨物のような扱いで樺太に連行された。病気に罹る人も多く、その生活はとても厳しく大変なものだった。
 昭和23年12月、ようやく日本に帰ってきた。

◇ ◇ ◇

 色丹島でのソ連人の子どもたちとの学校生活は、私が主人公で「ジョバンニの島」として映画化されました。その中でソ連軍中隊長のお嬢さん「ターニャ」という可愛い少女との交流が描かれております。
 この映画は評判もよく、たくさんの方から「全国の青少年に観てもらいたい素晴らしい映画」と言っていただきました。
 昭和20年8月15日の終戦後、昭和63年まで、約千隻の船が拿捕されてきました。なぜ自分の故郷の島に行けないのか、ずっと返還運動を続けてやってきました。元島民の願い、返還のためにたくさんの青少年に話を聞いてもらいたい。戦争の悲惨さを訴え続けていきたいと思っています。

→北方領土問題