474号(16年2月)

東日本大震災 宮城県被災地訪問

 12月17日、柿沼トミ子会長は宮城県仙台市へ。関東・東北豪雨のお見舞金をお届けしてから、宮城県大友富子会長と渡辺勝子副会長の案内で、名取市閖上地区の被災地や仙台空港などを訪問しました。

名取市閖上地区へ

被災前の航空写真を見ながら説明を聞く
家の土台の中を工事車両が走り抜ける

 移動中の車内で「ここまで漁船が流されて来たのですよ」と聞いた場所は、海岸までは程遠い住宅地の路上でした。いかに大きな津波であったかと想像しながら、現地に向かいました。
 閖上地区は名取市内で津波の被害が最も大きく、海岸線から市街地手前まで家屋が流され、がれきの運搬処理が進んだ広大な更地には家屋の土台だけが残り、工事車両が行き交い、あちらこちらで廃車が山積みにされていました。
 地区全体を見渡す日和山の閖上神社をお参りし、名取市婦連の佐々木加知枝副会長から説明を聞きました。震災による死者912人、行方不明者39人。5000人が暮らしていたこの地区に2000人が戻れるよう、地盤のかさ上げ中で、ダンプカーがひっきりなしに通っていました。新たに7メートルを越える防潮堤を建設中で、海岸線がまちの景色から消えていくのが寂しく感じられます。
 しかし震災後まもなく、閖上港魚市場が市内の大型スーパーに場所を移して復活し、その後カナダから木材の支援を受けてウッドデッキの市場を再建。外観もモダンで、休日には県内外から多くの人が訪れるそうで、活気にあふれていると聞きました。
 震災を伝える社務所「閖上の記憶」へ。地元の人も各地から訪れた人も立ち寄ります。津波の映像や震災前のまちの記憶を子どもたちが手作りしたパノラマ、震災前後を比較した航空写真など、涙なくして見られないものばかりでした。
 少しでも心のケアにと、編み物を始めたグループ「閖上あみーず」があり、レインボーカラーのアクリルたわしやストラップを販売していました。活動をしているうちに自信を取り戻し、復興への意欲がわいたそうです。
 「閖上震災を伝える会」ではバスで閖上のまちを巡りながら、語り部が当時の様子や思いを伝えています。「どうぞ、またお出かけください」と見送られました。

慰霊碑へ

 その後は14人の生徒が犠牲になった閖上中学校の慰霊碑へ。震災の犠牲者を悼む「種の慰霊碑」と、そこから発芽して震災を克服し復興に向けて決意を新たにの思いを込めて津波と同じ高さの8・4メートルに作られた「発芽の塔」にも、柿沼会長は手を合わせご冥福を祈りました。
 中学校の屋上には津波を逃れて1000人もの人が避難していたと聞きました。3月11日、この地域の学校はどこも卒業式だったそうで、ある先生は式を終え、袴を着替えるため一度自宅に戻ったところに津波が襲い、家族と車2台に分かれて高台へ向かったところ、後車であった1台だけが波にのまれ亡くなったそうです。波を遮る建物の位置がその進路を変え、生死を分ける結果になったとのことでした。
 閖上小・中学校はともに廃校、校舎は今年解体され、平成30年の完成を目指して小中一貫校として新築されます。

仙台空港へ

 震災時、小型機や整備車両も津波で流され1階部分に流れ込み、旅客、住民1400人は2階に避難しました。
 当時の浸水の高さを示す印がありましたが、大人が両手を上げても全く届かないほどで、避難者はここでも不安で恐ろしい思いをされていたことでしょう。それでも売店の土産物や限られた炊き出しのおにぎりを分け合い助け合う様子を見て、配給を担当した婦人会の皆さんが驚かれたそうです。
 被災者の住宅建設や移住は進んでいますが、今でも535世帯、107人が市内の仮設住宅に、民間賃貸(みなし仮設)には427戸、997人が暮らしています。
 被災で閉店を余儀なくされた鮮魚、精肉、花、酒屋、笹かまぼこや燃料店などの店舗が仮設商店街「閖上さいかい市場」で営業中でした。訪れる人を元気づけるかのように、真っ赤なテントに「絆」の1文字が目にとまりました。
 間もなく5年目の3月11日を迎えます。被災地を訪れてなお一層、復興を強く願わずにはいられませんでした。

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