430号(12年6月)

被災地からのメッセージ

被災地の今とこれから
山田町婦人団体協議会
会長 野田 和子

  東日本大震災・大津波から1年3カ月が過ぎようとしています。全地婦連をはじめ県内外の皆様には多くの支援金や物資をいただき、心より感謝いたしております。
  被災当時、全てのライフラインは閉ざされ、家族の安否もわからない不安の中で、家を流されなかった婦人会員は、米・野菜を持ち寄り、炊出しに夢中でした。
  22日目にやっと携帯電話が通じ、各地区に連絡を取ってみましたが、「多くの犠牲者が出たし、家も流され、会員の避難場所もわからない、もう婦人会は解散しかない」という声だけでした。
  なんとかして、立ち直らなければと思った矢先、岩手県婦協の及川会長をはじめ役員の方々が県内外からの支援物資を届けて下さり、その後も全地婦連の中畔会長・三苫副会長・事務局長と多くの方々が現地にいらして、直接会員の声を聞いて下さいました。
  それは、落ち込んでいた会員の心を励まし、いただいた物資を被災会員へ届けなければという使命感へと変化させる事となり、いつしか解散の声は消えましたが、残念な事に1地区だけが解散してしまいました。
  しかしその後、震災前に解散していた地区を含め2地区で会を立ち上げ、被災前と同じ会員数に回復でき、新しい会員にも物資を届ける事が出来ました。これも皆様からの励ましのお陰と感謝いたしております。
  なおも厳しい日々の中
  強い決意を胸に
  仮設住宅での生活にも大分慣れて、狭い部屋に閉じこもり近所との交流も少ない中、家庭菜園や花を植えたり、手作りの物で部屋を飾ったりと心は少しずつ癒されてきています。しかし、これからの居住地、失った仕事に経済的不安と、心が晴れる事はありません。
  会としても会費を集める事も出来ず、皆様の支援金から活動費をいただいて大変助かっておりますが、以前の様な事業や研修は、すぐには出来ない状態です。しかし、どんな辛い環境になろうとも全国の婦人会の皆さんが応援して下さっている事を胸に、女性の強さで乗り越え、立ち上がらなければと思っております。
  また、千年に1度という大津波を経験した者として、防災計画や活動に積極的に参加協力し、災害時の女性の立場からの要望・提言をしなければと感じております。
  そして更に魅力ある婦人会にし、1人でも多くの会員が増え、夢や希望を捨てず、自立へ向け一歩ずつ進んでいかなければと決意しております。今後とも応援よろしくお願いいたします。

福島第一原発事故と避難生活
双葉郡連合婦人会
会長 猪狩 レイ子

  2011年3月11日、東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故、あれから1年3カ月になろうとしている。
 あの日、停電、電話は不通という何の情報も得られない状況の中で余震に怯えながら一夜を過ごした早朝、耳に飛び込んで来た、防災無線に唖然としてしまった。
 「福島第一原発事故発生、放射能漏れの恐れあり、ただちに富岡町民は川内村に避難するように」と、何回も繰り返しの放送である。ちなみに、富岡町は人口1万4千700人、川内村は2千700人であった。
 とにかく逃げなければ!と、着の身着のまま阿武隈山脈を越え、川内村へ向かったが、車の渋滞は延々と続き、川内村への避難は無理と判断して、浅川町の親戚へどうにかたどりついた。
 浅川町ではテレビがついており、津波の様子、原発の水素爆発の様子などが次々と目に飛び込んできた。まさかこんなことになっているとは信じがたい光景である。
  その後家族はバラバラになり、私は千葉の成田市で避難生活を続けていたが、孫の高校のサテライト校がいわき市内で開設されるのを機に、いわき市で家さがしを始めて、どうにか現在の借り上げ住宅が見つかり、家族一緒に生活することができた。
 そして一時帰宅のたびに防護服を着け、震災の時そのままに散乱し、締め切ってあるわが家に入るのは本当に忍びない。時間が制限され、片付けることもできず情けない限りである。
 双葉郡内の婦人会員(平成22年度は1千098名)も、仮設住宅、借り上げ住宅と、県内外で避難生活を続けており、不安な毎日を送っている。
 福島の復興なくして、日本の復興はあり得ない、といっていた国は、今何を福島に期待しているのだろう。私たちは住む家も土地も豊かな素晴らしい自然もみな奪われているのです。
 ぜひ1日も早く賠償問題を解決してみんなに笑顔が戻り、一歩でも前進できることを望んでいる昨今である。

ゆめであったら
亘理郡地域婦人団体連絡協議会
会長 本間 利子

 目を閉じて、そっとあけたら、元の風景であって欲しい。海から2キロ、まばらに松林が見える。空しさが胸にこみ上げる。
 東日本大震災から1年あまり、ほとんど人の住まない淋しい所となった。
 春を告げる鴬は、いつも夏の終わりまでいてくれたのにもういない。閑古鳥もやっと啼いて夏を迎えた。天敵の少ない今、雉(きじ)の親子の可愛い行列。“ケーン”と大きく羽を広げ威嚇するオス。5月の花々は美しさを競って咲き香る。自然の営みは戻ったのに、まだ癒されない日々を暮らす方々も多い。
*津波の勢いで、次々と林立する畳、浮かんだベッドの上で恐怖に震えたと、涙声。

*黒い壁のように押し寄せた津波をかぶり、あ、もうだめだと思ったその時「頑張れ」と息子が手をつかみ引き上げてくれた。やっとの思いで2階へ。ずぶぬれ姿のままホッと我にかえり、息子がいなかったらと…。

*避難の途中、後ろから津波をかぶり、流れてきた屋根につかまり一晩中「眠ってはだめ、眠ってはだめ」とわが身に言い続け、翌朝救助。一緒のはずのご主人は亡くなり、彼女も凍傷。今も治療を続けている、と涙ぐむ。ただ手を握りしめ、慰めの言葉もなく肩を抱く。彼女の温もりが胸に痛い。
 瓦礫は片付き、浜辺に建つ巨大な処理場。昼は白煙、夜は不夜城の如く輝き、舗道の外灯が明るい。復興の鎚音は響きはじめた。
 地区でも、1人、2人と戻り、手作りの野菜を頂いたり、笑い合ったり、当たり前に暮らせる幸せがどんなに大切なことか、身を持って知ることができた。
絆とは、生き続けること。家を失い、肉親を失った方々の嘆き、苦しみを受け止め、共に乗り越え前進してゆく。
 あの日が夢であったら…。
 でも負けません。未来を見つめ、復興という希望に向かって羽ばたくのみ。

→「地域社会」のページへ